瀬戸内寂聴
2021年11月11日 カテゴリー:未分類
趣味で御朱印めぐりをしている数年前だろうか。
散策していて「寂庵」が近隣にあることに気がつき、きっと予約でもしないともらえないだろうと思いつつノックをしたら、家人が出て、どうぞと室内に案内してくれた。客人は私一人、秋の風の舞うそんな昼下がりだったような気がする。
そこは居住まいの全てが良い気風が流れていた。
全国からやってくる人生の迷い人達にここで講和を開き、心をふるわせ、泣かせ、笑わせていたのだろうかと私はぽつねんとしばし、そこにいた。
室内では寂聴はここには本日はいませんがと、心のこもった対応で、家人は私が世迷い人かと思われたのかもしれないが、思いのほか私の元気な風体を見て、安心しましたかのような表情を見せたことに職業柄、私は気がついた。
悩んでいる人を見て、どこまでの深さで悩んでいるのか、待ったなしなのか、そう見えるがいたって問題ない場合と悩みの深さは計算できないもので、そう見えたはずなのに命を絶ってしまう人もいるからだ。
ついこの間まで、好物の肉を食べ、書斎には数年先までオファーが絶えなかった原稿の山と格闘し、若いアシスタントにインスタでいじられ、100歳になろうかというときに亡くなったとニュースで知る。
寂聴の悩める人への求心力は年齢だけではない自分自身人生において大きな過ちがあったからに尽きる。また時同じくして、細木数子の死去のニュースも流れた。対局にあるような女性だが、どちらも力強く、人生につまずき、傷ついた人への叱咤激励の情報発信をし続けた唯一無二の女性だったのかもしれない。
今、テレビで激しい意見を言おうものならば攻撃される時代になってしまったが、二人の死はテレビの良き時代の終焉と共に終えたのだろうが救われた人も多くいて、今後の寂庵はどうなるのだろうと秋の風に舞いながら思う。