映画 寝ても覚めても。
2020年2月06日 カテゴリー:未分類
映画を見るとき、好きな俳優、監督、脚本と色々あるが、この作品についてはtofubeats の音楽が流れている。ただ、それだけで観に行った作品だっだ。
この作品は不倫の映画ではないが、私はこの映画の持つ独特なムードに惹かれ、若さゆえの愚かさにも共感し、けして嫌いな作品ではない。
昨今、芸能人の不倫が厳しいジャッジを受けている。
その多くは不倫をしたものは徹底的に叩かれ、関わった作品もお蔵入りになり、社会的制裁は再起不能にまで追い込まれている。
職業柄、多くのパターンの不倫も長年見てきた。
100人おれば100通り、けして同じ内容などはなく、それぞれの深い事情の中に不倫のスタイルが生まれ出るのである。
不倫をされている人の感情はけして嫉妬深い人なのではなく、その不倫については発覚してからは長い期間において悩み苦しみ、数え切れない先の見えない喧嘩をやり続けている。
そして、これまで滝のように流れていた、或いは少しづつ流れ出ていたコップの水が溢れだした時、そこが暗闇だったことに気づくのだろうか。
灯りを点けて椅子から立ち上がり、妄想の世界から解き放たれたく、ようやく探偵社をドアをノックするのかもしれない。
コップの水が溢れ出る時間は長い人では何十年も我慢し続ける人もいて、調査という決断の時間はおかれた環境によって人それぞれである。
なぜ、こんなにも人を狂おしいまでに愛してしまうのだろう。いつもの道を歩いていたはずなのに迷い込んだ道は茨の道で簡単に引き返せなくなってしまう。
不倫の渦中、相手と会わなくても心が彷徨い続けているのか、帰宅拒否症候群のように街を彷徨い続ける人もいて、そんな寝ても覚めてもの時間の中にいるのが不倫の渦中なのかもしれない。
この映画にはギリシャ神話がシークエンスのように差し込まれていて考察していけば実に面白いのであるが、主演の俳優たちは奇しくも映画の続きを演じていたのである。
人様の生き様を非難することは出来ないが、私も数多くの失敗を重ねて今の人生が彩られてきた。失意の底にいる人に手を差し伸べる人は果たして誰なのか。
長い夢から覚めれば厳しい現実がある。
だが、その泥沼といわれた不倫を止めてくれるのも他ならぬ妻であろうと。