待っている人がいるということ
2017年6月09日 カテゴリー:雑記
私は夕刻、しばしデパートの椅子に座っている。
デパートの入り口に置かれた休憩用の椅子に座るのは休憩したいのではなく、すぐそばにあるジムに入る前に、少し静かな場所で身を落ち着かせたいからである。
調査中の依頼人のメールを再チェックして、連絡すべきことを行い問題なければおよそ30分ほどで席を立つ。
相談員の仕事は24時間連絡を受けれるようにしなければならないが、もちろん休んでいる時間もあるものの、いつどんな状況でも電話が鳴れば即座に返答出来るように心の準備はしている。
相談員あるあるを言わせてもらえば、事務所でスタンバイしていても電話はなく、きりをつけて事務所を出て、帰宅への電車に乗りドアが閉まった瞬間に鳴りだす。
或いはお風呂に入った瞬間、高速を走って長いトンネルに入った時、久しぶりに友人とレストランで食事をしている時など、何か動き出せば出すほど、人と会えば会うほど人の気が何かを呼び起こすように相談電話が鳴るような気がしてならない。
マニュアルのない仕事は、こうしてあらゆる悩みのジャンルを持つ相談者からお話しを聞くことで何を聞かされても狼狽えず、鍛えられてきたのではないかと思っている。
そして、このデパートの椅子に座って最近感じるようになったのは、何かここで物思いにふけっている人たちが実に多くいることに気が付いた。
多くは70代以上の年配の方であろうか。
さしたる買い物などなく駅前にやってきて、デパートは過ごしやすいせいか、日暮れまで時間をつぶしている風情で、表情から一日誰とも話をしていないような寂し気な独居老人たちがそこにいる。
若い人は椅子に座れば携帯電話をチェックしたり、買い物の整理をしたり、これから忙しい日常をこなすべく迎えにきた家族と楽し気にいるが、高齢者になればなるほどポツンとそこに何をするわけもなく長時間ここで過ごしていることに。
そして、隣に座れば何かのきっかけであふれ出す水のように話し出す老人もいて、何も聞いていないのに家庭の事情やこれまでの半生を語りはじめる人もいた。
いきなり、どうぞと差し出されたのはアイスキャンデーのあずきバーで、それはデパートの入り口で売っていたもので、どれだけ断っても差し出すのは片手にビールを持ったおじいちゃんだった。
怪訝な顔をしていた私に自分は怪しい者ではないと言いたげに、袋を開け始めたので私は仕方なく口に入れると「今日はいいことあるよ」と言い、駅へ向かってトボトボと歩いて行った。
知らない人からモノをもらうことはいけないことだと言うのがよぎってしまったが、だが、少しくらい話をすればよかったと反省するのだった。
このデパートは特に高齢者が多く、その見極めはエスカレータの速度で、実にスローだが、それが幸いしてかこのエスカレーターで老女が転倒した時、緊急ボタンを押すことが間に合ったシーンを目撃する。
世の中のあらゆるもののスピードが若い人優先でいることの危険性を知ることになるが、それは自分も徐々に身体の違和感を感じているからだろう。
私はこうして時々、椅子に座ってさりとて問題なく過ぎていく夕暮れを眺め、いつも感謝をしている。何もない、何も起きないという日常の素晴らしさを誰よりも知っているからだ。
この椅子に座っていると駅からやって来る人たちがこちらに向かってどっと押し寄せる姿が見える。夕闇は孤独をより深くつのらせる時間のように思うが、帰る家があって、夕げの時間を誰かと過ごせることの幸福は失ってからではないとわからない。
多くの人の重なり合うご縁でここまでこれたことに感謝と、私にも待っている人がいる、笑顔でドアを開けてくれる人がいるという、小さな幸せをいつもここでかみしめている。