ロンリーガイの家
2017年5月26日 カテゴリー:雑記
ひと駅前で下車して約40分近くウオーキングをするようになった。
駅前は何もなく少し歩けば閑静な住宅街で、あえて歩きたいのでショートカット出来る国道の道は歩かないようにしている。
この地域に移り住んで長いが町を徘徊してみてわかる、町の様相を知る。
電車の窓から見えていた町並みはジオラマのように見えていたが、その家々の前にいると家はやはり息づいているということに。
にぎやかで今にも子供が飛び出してきそうな家や、玄関に激しい文言が書かれた誰も何も寄せ付けない頑固な風情の家、美しい花が咲き乱れる家には灯りの向こうにどんな家族がいるのだろうと思いをはせる。
途中、田んぼのあぜ道を突っ切るコースが一番のお気に入りで、時折、山風が吹いて木々が揺らぎ蛙が鳴きだし、どこからか家族の団欒の声が聞こえる。
夜のしじまと、このぼっち感覚がいい塩梅に溶け合って私は深呼吸をしながら田んぼのあぜ道で生命の息吹を感じるのである。
いかん。
すぐに私は本来の目的を忘れてしまうところがある。
ウオーキングはある程度の早足がいいのであって、のんきに散歩をしているようではいけないらしく、おまけに喉が渇き、はるか先にあるコンビニでアイスクリームを買い舐め舐めしながら帰るということを考え出す。
そして、一軒気になる家がある。
その家は信じられないことにシースルーの家である。
はじめて確認した時は隠れ家的なバーなのかと思った。
普通に横文字の表札をみて個人宅なのだと驚いてしまった。
まるでカーサの本に出てくるようなスタイルを持った家で、2階が住まいのようでカーテンやブラインドは一切なく、ムーディな灯りが家の中をぼんやりと映し出す。
一寸の狂いもなくおしゃれな配置で小物や絵画が置かれていて、立ち止まって長々と見るわけにもいかないが、どうぞご覧になってと言われているような家なのだ。
ある日、小窓に女性の姿を見た。女性はちょっと踊っている風に見えた。キューバー音楽は以前から聞こえていたのでダンスでもしているならば、田んぼのあぜ道のいる私は一緒に踊ってみようかと思ったり何ぞする。
だが、よくよく見るとそれは人形だった。
「ロンリーガイ」という映画を思い出す。
NYで恋愛にやぶれ家を追い出されベンチでたたずんでいた所に哀愁漂う男に出会う。男はロンリーガイという集団のメンバーで、NYには想像上、自分以上の孤独を持っている男がいることを知り、孤独の乗り越え方として筋金入りのロンリーガイを紹介される。
同じく別のロンリーガイから「これからは部屋そのものが親友になる」と言われ自分の部屋で、さも毎日パーティーをしているように見せるために人形を窓辺に並べるのである。
プライドを保ちたいスノッブな男の話で、全編シニカルな台詞が満載で窓辺の友人というのは実際にNYで販売されていたようでジョークなのかわからないが、80年代の作品だが、今みてもいささかの古さも感じさせない、現代のおひとり様の時代を表している。
40分をこなせるだろうかと心配していたが、少し町を歩くだけでこのような興味深いストーリーが散りばめられているせいか、思いのほか身体は慣れ親しんで余程の雨でない限り続けるつもりでいる。
孤独は人それぞれの味わい深さがあると思っている。
窓に友人を並べるのもよし、泣くもよし。
孤独でなくなった時、ようやく違いのわかる人生を過ごせるだろうと。