○○○○本について
2017年3月14日 カテゴリー:雑記
購入したい本がある。
写真集だが随分前からネット上では騒がれていて、ついに刊行されたようだ。
私はその本を手に取ったら密やかに楽しみたいつもりでいる。
まちがってもソファーでごろ寝の状態で眺めることなど出来ないだろうと思っている。
例えば、暖炉の火にあたりロッキングチェアーに座り、上質なカシミアのストールを纏い、ジンジャーティを飲みながら心地いい音楽が流れる中でページをめくりたい。
そして思う。
全てが愛くるしいというのに、そこに焦点をしぼったことで何万倍にも可愛さが増すもので、第二弾、第三弾があるとするならば引き続き購入するだろうと。
私は50才を随分過ぎて、今あらゆるものを断捨離し始めている。書籍についてはすべからく好きで写真集、画集、詩集、俳句集、ネイチャー本なども大好きだっだ。
ナショナルジオグラフィックについては長年の購読者で好きなテーマだと読めない英語版なのになぜかバックナンバーを取り寄せるほどだった。
だが、ある休日、寝転がっていたところ、本棚に西日が差し、本の背表紙が色褪せ埃がたまっている様子を見て、やおら立ち上がり書籍群を50冊に絞る決意をした。
スカスカになった本棚に小さな壺すんころくを飾り悦に浸っていたが、まだ50冊への道のりは長くお気に入りの本はいくつかあって、どれだけ色褪せようとも捨てることなど出来ない本もある。
10代の終わり、吉田ルイ子のエッセイや写真集に影響を受け、大阪での展覧会を知りたく出版社に電話したところ、驚くべきことに自宅の電話を教えてくれた。
日本に一時帰国したばかりなので、ならば直接聞いてみたらどうでしょうと自宅の電話番号を教えてくれたのだった。
思い切って電話すると本人が出たことに更に驚き、何を話したかは覚えていないが、ファンとはいえ、ぶしつけに自宅にかけた見知らぬ者にとても丁寧な対応だったことにますますファンになった。
ゆえ、「ハーレムの熱い日々」は本棚のトップに鎮座している。
涙をのんで旅立っていった本たちは、処分したとしても私の血となり肉となり、果てしなく想像力を豊かにさせてくれたもので、好きな作家の敬愛する作家を知ると数珠繋ぎのように本棚をうめていった。
なので一冊購入すれば一冊処分を心得ているが、書店でこの本を発見する。
タイトルは「にゃんたま」。
名もなき野良猫たちの○○○○のみにクローズアップした写真集である。
去勢なき姿は性のパワーをみせつけ、自由に派手に動きまわり、見開きページにはなんと様々なスタイルの○○○○が登場し、当然なのかもしれぬが、その形はすべて違っていて○○○○の奥深さを知るのだった。
町を徘徊し、物憂げな表情をしていたり、決死の格闘している時でさえセンター部分にズームされ、これは猫ブームにのっかった猫本などではなく、まさしく○○○○のみを愛でる写真集と言っても過言ではなかろう。
これを人間界と置き換れば、想像もしたくないが男性には失礼だがそこにラブリーさは皆無、おぞましいばかりで誰も購入しないだろう。
だが、なぜだろう。
猫たちの○○○○は、小さな棒で静かに触れてみれば涼やかな風鈴の音色が聞こえてくるようで、或いはそっと耳を澄ませてみれば、すずらんが囁きかけるような可愛らしさがそこにある。
ポケットサイズなので、しばしバックに忍ばせて意味なく心が沈みかけそうになった時、眺めるもよし。
ちなみに我が家には暖炉もロッキングチェアーもないが、この本にぴったりの音楽をようやく見つけ、今夜はKelly Sweetの「WE ARE ONE」をかけながらじっくり楽しみたい。
「にゃんたま」 写真 吉澤ルミ子 自由国民社