小池龍之介
2016年10月27日 カテゴリー:雑記
人は苦しみの淵にいる時に何とかその問題を解決しようと知恵を授かりたく、その一冊を手に取るのだろうか。
「考えない練習」
「苦しまない練習」
「しない生活」
「もう怒らない」
著者、小池龍之介の何か突き抜けたようなルックスも相まって、タイトルのシンプルさしかり、どれも売れているようで宗教系やエッセイ、他多数の本を書く作家で、鎌倉の月読寺の住職でもある。
最近、メディアでよく見かけ、人気があるのか必ずどこの書店にでも平積みされている。そして、東大卒、西洋哲学を専攻していたインテリであるものも、やはり一筋縄ではない激しい経歴の持ち主のようだ。
僧籍は父方の寺を受け継ぐ際に本願寺派の教義に反した活動・出版をしたとして、不許可処分を受け僧籍削除されている。恋愛や家族のトラブルはどこまで事実なのかわからないが「坊主失格」というエッセイの中でも過去の自分の愚かだったことについて書いている。
ウエブサイトでは「家出空間」というものがあるが、今一つこれを確認しても私には一体どこに向かっているのかわからないが、これまでの僧侶のスタイルとは全く違い、お経も唱えず葬儀、法要に関わらず、鎌倉では古民家風の家で座禅と瞑想を指導している。
ここを訪れる人が多くいて、小池龍之介氏の姿をみるだけで癒し空間にひたれるようで、寂聴のような派手さはないが静かなムーブメントが起きている。
氏いわく現代は自己愛拡張型の時代という。
インターネットの到来によって顔の見えない、相手の反論を聞くこともないネット世界では傍若無人にふるまえても、現実の人間関係は思うようにいかず、その反動から更に激しい思考回路へとなって行く。
人間はもはや相手を説得させるべくの言葉と顔の表情で相手の心を読み取ることが出来なくなってしまい、少しづつ何かが狂い始めているのかもしれない。
離婚したばかりの頃だった。
私は自宅に帰るのが今日から実家に帰るコースに変更したことをうっかり忘れ、かつての家路から実家へ乗り換えるために梅田のコンコースを歩いている時だった。急に涙がとめどなくあふれてきた。
何十万人が交差するこの場所では泣きながら歩いていたとしても、誰も私のことなど気にしないせいか、毎回この場所に来ると涙のスイッチが入ってしまい私にとって泣いてもいい場所になった。
その頃は本や活字を読むことが出来なくなってしまい、いい人生の指南書にはめぐり合うことは出来なかったが、職業柄このような本は常にチェックしている所がある。
このコンコースの先をムービングウオーカーで歩いていると最先端の広告を確認できるが、当時一体何に泣いていたのかも思い出せず、どうやって苦しみを克服したのかも言葉にすることは難しい。
「怪物を倒そうとする者は、自らが怪物とならぬよう気を付けよ。お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ」
苦しみの怖さは自分を見失うことである。
帰る道は示されているのに、どんどんあらぬ方向へ行くことに。
座禅を組み、瞑想し、大きな壁にぶち当たった時に人生のヒントを与えてくれる何かを求めてやまないが、いつしか涙は知らぬ間に乾いていく。
離婚した頃はしばらくは誰とも口をききたくない、そんな心境だったが毎日お帰りと言ってくれ、一緒に食卓を囲むことで知らぬ間に私は徐々に自分を取り戻していったのかもしれない。
人様の悩みは思うが以上に深くそばにいる私の心も惑わされるが、気が付くといつもニーチェの言葉と、何かのメッセージのような書店の平積みの本をじっと眺めている自分がいる。