ペンフレンド
2016年10月04日 カテゴリー:雑記
ペンパル。
或いはペンフレンド。
この言葉に恥ずかしさと懐かしさに消え入りそうになる自分がいる。
遥か昔、雑誌には必ずペンフレンド募集欄というものがあった。信じれらないことにそこには住所・氏名・年齢・電話番号・趣味などの個人情報の全てが記載されていた。
私は関東のある女の子に手紙を送ったが、2通目から「お手紙が殺到して、電話が鳴りっぱなしの毎日でせっかくですが、お返事はもう書けません、ごめんなさい」と、達筆に書いた文章が1通目と明らかに違う筆跡で、きっと母親が書いたのだろう。
重要なのは三行広告のような自己アピールで、趣味やフィーリングさえあえば直接そこにお手紙を書き、或いはいきなり電話をかけるのもありだった。
私は12才の頃の趣味の一つだった夕刊の下段に必ずあった映画案内の広告や、近所で廃品回収に出された雑誌をすべからくチェックし、映画に関する記事を発見すると切り抜き、クッキーの箱にコレクションしていた。
そして、ついに13才の時に茨城県水戸市に住む、同じ年齢のk君とペンフレンドになった。
映画好きが共通項で、k君は「スクリーン」や海外の映画雑誌を読み漁り、品田雄吉の品評を好み監督論などを話す渋い13才だった。
私は当時から「ロードショー」を愛読しており、周りに映画を話せる友人がおらず同志を得たりと手紙を送った。
ポストをのぞくのが楽しみになり、ニュースで千葉県で台風と知ると、即座に手紙で身の安全を確認したくなるほどペンフレンドを思った。
古書店で50円の映画雑誌からK君の好きそうな作品や俳優の写真を切り抜き、クッキーの箱からも選び出した映画のチラシや広告でコラージュ作品を作り、封筒に入れて送くるということに没頭した。
多感な思春期の頃で、語り合うことは他に多くあっただろうが、映画以外については思い出せないが映画館には頻繁に行けないはずで、二人は完全に映画オタロードを突っ走っていた。
離れていたこともあり一度も会うこと電話をかけることもなく、ただ便箋の上で互いの思いをぶつけるだけで楽しく充分だった。
だが、出会いがあれば別れがある。
蜜月の終焉はある日突然やってきた。
15才の夏休みk君が何かの用事で大阪に行くので、その時に会いたいと言ってきたのだ。直ぐに返事が出来ず困惑しても、勝手に日時と場所を決めて来るまで待っていると言う。
映画の語り部オタク道を邁進していたが、もはや映画だけの話では抱えきれなくなったと思った瞬間、約3年間のペンフレンドの時間は終わりを迎える時がきた。
今にして思えば会うぐらいすれば良かっただろうが、自分の気持ちをきちんと表現することや、好きなのに嫌いのようにつくろった自分を心から恥じ入る。
未だに水戸市のニュースが流れると、クッキーの箱に入れていた作品をゴミと間違われれ母親に捨てられ号泣した夜を思い出す。
それはk君の大好きなブルース・リーの写真のコレクションであり、ヌンチャクの決め顔はもちろんのこと、おちゃらけた顔を真ん中に配置し、リーの顔を100面相にした貴重なコラージュ作品が入っていた。
ペンフレンドについて。
平成生まれの人はよくわからないだろうが、あくまで筆のやり取りで、会うことも考えるが寸での所で会わないのが真のペンフレンドである。
写真を交換し合い、その後、出会う人も多く英語も出来ないのに海外のペンフレンドと交流していた強者もいたが、少なくとも私は約束の場所に行かなかった。
顔の見えない相手とのやりとりは勝手にイメージを膨らませていく傾向がある。
K君は一体どんな顔や声をしていたのかわからないが、本を読んでいて勝手に声や顔を想像するようにK君は私の中で息づいていた。
K君の好きそうな映画を見ると、未だにふと感想を聞きたくなったりするが、思い出は美しくも短くも燃えつきて、ほとばしる感受性を受け止めてくれて、今にも壊れそうな世界で生きていた思春期を超えられたのもK君のおかげだと思っている。
いつか水戸の街へ訪れてみたい。
もはや手紙も手元になく住所も覚えていないが、水戸駅に降り立つだけで、きっと過去と素敵なランデブーが出来るに違いないと思っている。