結婚するということ
2015年12月15日 カテゴリー:雑記
最近目についてしまうのは神社にいる黒服を来た男女たちである。
彼らは結婚の儀式を取り仕切るウェディング会社のスタッフたちで無線機を持ち、てきぱきと動いていた。
花嫁はお付きに人に手を添えられ、玉砂利を踏みながら厳粛に楚々と歩く。白無垢姿は女性を高貴に美しく魅せ、その場に偶然居合わせた人も皆、その喜びを感じて小さな歓声をあげて笑顔になってしまう。
結婚は親族、知人だけでなく、関わる全ての人たちから夫婦であるということを認められることだろうか。
結婚して急に変わったという人もいれば、何かのきっかけで変わってしまったと嘆くが、それはただ見えなかっただけで、結婚生活を経て、ようやく夫婦でいることの意味を突き付けられる。
私が御朱印をもらいに神社に出向くことが多いからなのか。
その日が大安だったからなのか。
最近、結婚の儀式に遭遇することが多く、結婚しなくなったと言われるが、こうして古式にのっとった形のお式を眺めることで結婚というものをその場で再認識させられる。
その日も大安、天候は快晴、鎌倉の参道を花嫁を乗せた人力車が走り、時代劇のようないでたちに外国人観光客の歓声と拍手に祝福されて花嫁は鶴岡八幡宮へと向かって行った。
私の仕事の多くは、きっとかつてこうして祝福された人たちであって、何故こんな風に変わってしまったのだろうかと嘆き、苦しみ、その先の未来が見えなくなって依頼するのである。
幸福だった時間を知るのは皮肉にも不幸を抱えた時にしか感じられないもので、自分はずっと不幸だったと言っても、無邪気に笑い合い、何度も喧嘩しながらも乗り超えてきたはずなのに苦しい思いの中にいると這い上がることが出来ない。
離婚を経験すると、もう二度と結婚はこりごりと思ってしまうが、花嫁の静かに高揚する姿と心から祝福してくれる人たちをまじかに見ると、幸福だった時間もたくさんあった結婚生活を思い出した。
対象人物の提供情報の写真が結婚式の写真であることも多く、その胸中はいかばかりだが、調査というものが効用を発揮することで多くの依頼人は離婚を選ばない結果となっていく。
ならば初めから結婚などしなければいいのではないかと思ってしまうが、やはり、徐々に家庭を作り上げる醍醐味は、ただ、交際しているだけの時間では補えない。
結婚はどんな形であれ幸福の賜物です。
積み上げた歴史に苦しみが多く含まれていても、それが糧にもなっていく。だからこそ離れられないパートナーとしてこだわり続けるのかもしれません。
今年も残りわずかとなりました。
何か少しでも解決へのお手伝いが出来れば幸いです。