誰も知らない。
2015年8月21日 カテゴリー:雑記
大阪の西区のオレンジストリートはアメリカ村から徒歩数分、インテリア関係の素敵なお店があって、私は気に入ったお店の隣にあるカフェでお茶を飲んでいた。
夕刻だったように思う。
この賑わったストリートに似つかわしくない向いのマンションに献花台が置かれ菓子やジュースを持った若い女性数人が手を合わせ、その姿を報道関係のテレビカメラマンが撮影をしていた。
その場所がネグレクトの果てに2児の子供を餓死させた事件を起こした、あのマンションだったことに直ぐに気づいて、お茶を飲んでいるどころでなくなった。
この事件の内容が余りにも衝撃的だったので当時大々的に報道され、幼子が餓死するまでの状況が詳細に伝えられ、胸がえぐれるほどの気持ちになってしまうので差し控えさせていただくが、そのマンションの目前のカフェに私はいたのだった。
手を合わせていたのは同じような子供を持つ若い母親たちで、いてもたってもいられずネットでこの場所を知り、駆け付けた人もいたそうである。
誰も知らないことの恐ろしさは賑わいのすぐ先にあった。
明るい活気あふれる街の中で、こうして見えない聞こえない遮断されたような世界があったことに正直ショックを隠せない。
この事件を知った時に思い出した映画がある。
20年前に起きた東京・巣鴨で起きた子供置き去り事件をベースにした監督、是枝裕和の映画「誰も知らない」である。
全編淡々とドキュメンタリー風に撮影され、台本を渡さず子役は全員自由に話をさせたそうで主演する子供達の演技がとにかく素晴らしい。私は流れる音楽に惹かれ、事件の概要を知っていたのでこの映画を見た。
1988年巣鴨にて戸籍のない子供達が保護される。彼らは子供達だけで暮らしていた。悪臭漂う中で暮らしていたのは14才 6才 3才。子供達全員は学校に行かず父親は全て違っていたという。
母親の生き様は全てが男との関係が最優先の女でしか生きられない人だった。
自力で産むも育てようともせず、わずかな小遣いを長男に渡し、時々帰るを繰り返し、ゴミの山となった部屋の中で残された子供たちは寄り添い、誰も知らない、知られない世界の中で生き抜いて行くのだった。
そんな親でも子供達にとってはすがりたい愛されたいと願い、腹をすかせながら、ゴミを食べながら母を待っているのだが、現金書留で金をたまに送金するだけで、いつしかそれさえもしなくなり、帰ってこなくなるのだった。
数か月後、金が底をつきすべてのライフラインが止められ、コンビニで万引きを繰り返すしかなく、きょうだい達はただ生き延びるために必死で生き抜こうとするが、長男は混迷尽きて徐々に下のきょうだい達をコントロール出来なくなっていくことから悲劇が起こる。
映画は忠実に事件を再現をしていないものの、追い詰められていく様を静寂に表現し、生きることの目標を失った時、誰からも愛されなくなった時、一気に想像も出来ない世界へと踏み込んでいくのだった。
オレンジストリートの事件については無論、マンションの住民も何もしなかったわけではなく子供達の泣き叫ぶ声を連日聞き、何度も警察に通報しているが、一度も立ち入ることもなく、見過ごされてきたという。
このストリートの中心とも言える場所で起きたこの事件はのちに、マンションの住人達の心を大きく揺さぶり、これまで挨拶すらしなかった住人達がこの救えなかった命の重さを知り、この事件をきっかけに語り合うようになり、亡くなった子供たち二人の名前の一文字ずつを取って「桜楓会・おうふうかい」と言う交流会をマンション内で今も行っているという。
孤独はいけない。
小さな子供の孤独は絶望を意味するのだから。
映画 「誰も知らない」 2004年 監督・脚本 是枝裕和