編み物、時々、なぞかけ。
2015年5月19日 カテゴリー:雑記
電車の中で編み物をしている人がいて、傍らには編み物の本が置かれていた。
その本を時折、熱心に見ながら、前のめりになって編んでいた。
電車の中で編み物をしている人など見かけなくなったので、その指先に私は注目する。
その人は坊主頭、きりりとした眉。高下駄が似合いそうな粋な風貌。
大きな節くれだった指が一目づつ優しく毛糸とまみれる姿は陽だまりの中、縁側でちんまりと茶をすするおばあちゃんのように見えて、電車の中が暖かい空気になっていく。
こうしたわずかの移動時間まで利用し、熱心に編み物をしていることに私は心を動かされた。手芸好きもあって対角線上の席で私はあなたのことを知りたいオーラーを発信し続けた。
だが、彼は私の光線を気づかず一心不乱に編み続けた。最近では、編み物男子や手芸男子がいることは知っていたが通勤電車の中で遭遇することは昭和生まれの私は関心してしまう。
人は見かけで判断してはならないと心から思い知った。
人は様々な経験から生まれた趣味嗜好がある。
それは何かのきっかけで全く知らない、或いは全く興味のなかったことが、ある機会に出会ってスイッチが入ることもあるのだ。
編み物男子は気になってネットでチェックしてみると世界中にいるようで、筋骨隆々の人がネットで可愛らしい作品を披露している。
男性ゆえ、女性の多い教室に通いにくい、作品を見てほしいなどの悩みがあるらしく、密かに編み物男子の情報交換の会合がどこかで行われているらしい。
その編み物男子が編まれていたのは小さなケープのようなものだった。
私は勝手に楽しい想像する。その置かれた本と慣れない手つきは初心者であろう。
父は毎日仕事で忙しい。
だが、もうすぐ生れて来る子供のために初めての作品を何としても編みあげたい。きっと、心楽しく思いながら編んでいたに違いない。
私は想像力が逞し過ぎるのか。
電車の中にいると様々な人達の人生のストーリーが隠されているのだ。
最近は着席するやスマホタイムの方ばかりで、楽しい想像をさせるべく人達はなかなか現れてくれないが、ご年配の方は眺めているだけで、その全身の佇まいからあふれ出るこれまでの深い経験の積み上げられた人生のオーラーを放っている方が多い。
そう思うと長い通勤時間も苦にならず楽しめる時間になっている。
某駅のベンチに座っていると、いきなり「なぞ解き」をする爺さんに出くわした。
そこの駅に行くといいお爺さんばっかりおるらしいですな~知ってはる?
はぁ??
はい!そこはそうぜんじ!!
・・・・・・・・・・。
いきなり隣に座り、何をいってるんだと警戒したが、そうぜんじ・・・それは阪急京都線の崇禅寺駅のことを指していることに気づく。
爺さんはノッてきたのか、あらゆる駅のこじつけ度の高い謎ときを伝えてくれた。それは全て京都線オンリー。そして、その後、いつだったか南海線の某駅で、この爺さんと遭遇する。
誰かと話し込んでいて聞き耳を立てると、やはり南海電車のなぞなぞを披露していたのだった。このような人は全線のネタを持っているはずである。
そして、それを披露することは、その電車を利用する乗客でないといけないルールがあるのだろうと。私は所用で急いでいたことが悔やまれた。
だがまた出会うだろう。
そんな予感がする。