けものたち3
2015年3月23日 カテゴリー:雑記
自宅の門扉を開けると、玄関のすり硝子の向こうで大きな白い塊がうごめいている。
階段を上り玄関を開けたら、どんな時間でも、「おかえり」と言ってくれる。
我が家の猫2匹達は年齢は6才。
人間で換算すると40代、まだまだ血気盛んなお年頃、すこぶる元気である。
猫にも様々な性格があり、私の帰宅をキャッチし玄関で待っている者もおれば、冬は寒いので暖房器具の前で寝ころんでお帰りと言う者もいる。
この前者の猫は、恐るべしアンテナを持っている。私が帰宅に至る交通手段として、自転車、タクシー、誰かの車、徒歩。何れかのパターンで帰宅するが、必ず10分前には玄関に向かい鎮座しているという。
無論、帰宅時刻も毎日定刻ではなく、門扉を開ける音で私だと推察することも出来ようが、すでに10分前から鎮座しているのである。その姿を見て、母は私が駅に到着したと判断して、味噌汁をあたためる準備に入るのだ。
だが、これは犬や猫を飼っている方ならば、納得される、あるある光景だろう。
知らぬ間に私も必ず自宅に着く前には、電車の中でつい写真フォルダーを開き眺めながら、出掛ける時におもろい顔して見送ってくれたなと愛しく思いながら家路を急ぐ。その気持ちが波動のように伝わるのだろうか。
言葉を持たない動物達は本能で向かってくる。
あなたを愛している、あなたの帰りを待っている。
生涯出会って最後まで一緒にいるのは、あなたしかいないのですからと。
盲導犬のフォーク事件について、犯人探しが検証された結果、単なる湿疹だった可能性があるようで、大きな反響を呼んだが、当時、私は心が打ちのめされた事件だった。
だが、そのような残虐な行為をした人などいなかったのだと、その訂正を知り心から安心した。背景を知ると誰も悪い人などいなかったはずだが、拡散してしまった情報で大きな波乱を起したのだった。
言葉を持たない生き物が人間と暮らすことで、本能を狂わされ勝手に解釈されてしまうことがあるが、だからこそ、命を守り愛おしい者として、その短い命を最高の環境下で暮らしていきたいと願う。
私は60才を過ぎると、新たに動物を飼うことはもう出来ないだろう。
10年以上生きるものを責任持って飼うことが出来る約束が出来ないからだ。
今の愛猫達が最後の家族と思って暮らしている。10分前に冷たい床で腹這いになって今か今かとスタンバイしていている姿が思い浮かび、門扉を開けると小さく鳴く声が聞こえてくる。
私が帰って来ない日はどうしているのかと家人に聞いてみると。
小さなバスケットに入っている私のパジャマの上で寝ているという。
そして、翌日、私は駅に到着する時間、最大のビーム、テレパシー攻撃を仕掛ける。
家を開けてすまなかった、おやつはバックに入っている。今夜は思い切り猫じゃらしで朝まで遊ぼうと。
自宅に着くと、10分前にはいたそうだが、玄関にいなかった。自室に入ると、バスケットがひっくり返り、私のパジャマの上着のボタンが噛みちぎられ激しく飛び散り床に捨て置かれていた。
手に取るとヌメリ感が半端ない。
悔しさと寂しさで噛みしごいていたのだろうか。
頭隠して尻尾隠さず、カーテンに隠れていたので、名を呼ぶと、ようやくそばにやってきた。
けものであっても、実に人間臭い濃い熱情を持っていることに時々驚かされる。
だが、こうして、感情をストレートに表現してくれることも、私はこよなく愛している。