マディソン郡の橋
2014年3月19日 カテゴリー:雑記
不倫をテーマにしながら、誰も傷つけることを選ばなかった二人。
永遠の愛の4日間過ごした後、生涯思い続け、死してようやく思いを叶える。
90年代、当時多くの女性の共感を得たようで、本、映画の作品でも爆発的ヒットをした。
だが私には、この映画は、妻の心の変化に全く気がつかない夫。
それを描いた映画でもあろうと再認識する。
亡くなった母の日記から、残された子供達は母の思いもよらぬ不倫を知り、アイオワの広大な自然の美しさを交えながら、永遠の愛の4日間として物語は始まる。
牛の品評会で家族が留守にした4日間。
自宅で帰りを待つ主婦フランチェスカは小さな町に橋を撮影にやってきたカメラマンのキンケイドと出会う。
イエーツの詩がそっと置かれ、それにすぐ答えることの出来るフランチェスカも知的な女性で、母国イタリアを思い、この田舎町で感情を抱え込みながら暮らしていることが劇中何度も描かれる。
そして、フランチェスカの夫は時折、何も感じない人として現れる。
農夫の夫は食事中、会話もせず、ただビールを飲み続けるだけである。
代々引き継がれたであろうアンティークのチェスト。
力加減がわからず、いつも開けることが出来ない。
仕方のない人ね・・そんな顔をしながらチェストと格闘する夫に「怒らないで・・喧嘩しないで・・」と優しく包み込みようにそっと触れ、引出をスッと開けるのである。
この小さなエピソードの数秒で、夫の性格やこれまで妻がどれだけ家族のためだけにこの家で暮らし、家を守り生きてきたのかがよくわかるシーンである。
キンケイドが町を出る日。土砂降りの雨の中、偶然、信号待ちですれ違う。
君を待っている・・一緒に行こうと車の中でしばらくとどまっていることに気が付いて、フランチェスカは慟哭し涙を流す。
迷いながらハンドルを握り、今にもドアを開けてキンケイドの元へと走り去らんばかりの胸中なのだが、隣に座る夫は、なぜか、その妻の変化に全く気がつかないのである。
あくまで映画の世界をドラマティックにするために夫が鈍感に描かれすぎているのかもしれないが、このような夫であるからこそ、家族を夫を捨て去ることも出来ないのだろう。
不倫の行く末は、その愛がいずれ反逆しあうことを知っていたフランチェスカは残された家族の苦しみと、これまでの自分の人生を否定することも出来ず、永遠の愛の4日間だけを胸に秘め人生を終える。
亡くなってから、灰をマディソン郡の橋に捲いてほしいと子供達に残し、同じく、キンケイドも生涯独身で思い続けていたのである。
カメラ、身に着けていたアクセサリー、橋の写真集もフランチェスカに捧げるとサインが記されて遺品として、先に受け取っている。
だが私は、夫も必死で家族を守り続けてきたというのに、何も知らず亡くなったことで、この映画をただの映画として楽しめないのである。
私はキンケイドの元へと行ったフランチェスカのその後のストーリーが見たい。キンケイドが約束してくれた確かな愛に変化はなかったのか、フランチェスカに後悔はなかったのか。
キンケイドはN・ジオグラフィックのカメラマンで、世界中を旅する男。
詩を音楽を語り、花束を捧げ、ダンスすら踊れる男でもある。
この4日間での時間は現実の全てが退屈な日常に思えるだろう。
4日間だけで、全てを分かち合うには無理がありすぎる。
現実の愛は何があろうと、片時も離れることなど出来ない。
確かな愛をフランチェスカに生涯持ち続けていたのは、一度もチェストを満足に開けられず、愛をうまく伝えること出来なかった、この夫だったのではないかと思うのは私だけだろうか。