探偵の靴
2013年11月29日 カテゴリー:雑記
静かな昼下がりだった。
「何故、靴を磨かないのだろう・・・」
代表A氏がそう小さく呟いた。
私はヒールの減りは必ずチェックしているものの、余程の汚れがない限り熱心に磨くということを最近していないことに気づかされる。A氏は靴の価値は値段ではなく、手入れのされた靴を最近見かけなくなったと嘆く。
改めて街中で、手入れを良くされたピカピカに光った靴の持ち主は何故か、圧倒的にご年配の方が多く、これぞ真の紳士であろう。
ある日、調査員N氏の靴が泥だらけであった。
連日の風雨の中からのご帰還である。
その姿は仕事の奮闘を否応もなく現わす。
だが、それを見たA氏は鋭い視線で、如何なる非常事態であろうと戦が終われば男たるもの足元は紳士であらねばならんぞと、何かN氏に強く申したい、靴磨きの極意を伝えたい表情でいたことを私は見逃しませんでした。
隠し扉からマイシューズ磨きセットを取り出し、靴の汚れの落とし方、磨き方を語る。
その木箱には達人の選んだ様々なブラシとクリーム。
磨きの定番である履き古したストッキングも並んでいる。
そして、どこからか取り出した上等そうなシューズキーパーをN氏に良ければどうぞお使いなさいなと、うやうやしく差し上げるのだった。
思い出すに、N氏は疲れた身体を休めながら饅頭を食べている最中で何か遠い目でいながらも、それをしっかと受け取り、言われるが如くはめていた。
だが、N氏の靴にキーパーがささっていたのはその日だけである。
翌日にはキーパーは机の下に置かれた箱の上にひっくり返っていた。
はめたり、はずしたり、その手間のかかる行為が、毎日きちんと出来る人は靴にこだわり持って、こよなく愛せる者にしか出来ようもない。
一本の棒となったキーパーは相方を失い喪失感を持ってそこにいた。
靴の中にきっちりとあてがい、姿よくスタンバイすることは、美しいまでの緊張感を持ちながら、本来、靴とは何であるのかの意味と、ただ脱ぎ捨てられた靴であっても、眺めるとそれを履いていた人の存在感を強く現わしているものだと知る。
N氏は尾行の名手であり、目が後ろにもついているのではないかと驚くことがある。だが、その特殊技能は仕事にのみ発揮されるもので、己の靴の底の汚れやソールの溝の汚れまでは見えないのだった。
これまた感の鋭いA氏のことである。
悔しくもキーパーの現状もご存じのはずであろう。
何故、あなたは入れぬ、磨かぬ。
使わぬのなら即刻、返却していただきたい、そう思っているはずだ。
私は事務所の室内を掃除機をかける度に、毎回N氏の机の下のそれが視界に入いる。確認すると何か全身が疼きだしてしまい、笑いをこらえることがどうしても出来ないのはなぜだろう。