私が会いたい人
2013年2月12日 カテゴリー:雑記
「同居人求む。キタへ徒歩10分、期間2年、女性年齢問わず、職業問わず。猫OKの方。
関心のある方は金曜日20時頃までに、このお店にお越し下さい」
独身時代、私は先輩の知人が2年間海外へ行く間、格安でレントするという話を聞きつけ、早速見に行った。そこは素敵な瀟洒な3LDKマンションだったが、その家賃は安くしてもらってもOLの私では払えない金額だっだ。
持ち主は外国人の大らかな人で、女性3人迄ならかまわないと言ってくれ、私はよく遊びに行っていたジャズバーのお店の情報交換のボードに、この話を貼り付けておいた。
その時間に現れたのは3人の女性、一人は漫画家志望のA子25歳と美容学校に通うB子20歳、地方から大阪に来て、お金を貯めていずれ独立を考えているという。
OLの私は海外旅行位しか頭になく、野心家だなと関心してしまい、すぐに同居人となった。最後のC子は同居人にはならなかったが、このマンションによく遊びに来てくれた。
家賃、光熱費、電話代、全て3分の1、各自部屋はあるがリビング、風呂、トイレ他共有、これは当番制の掃除、外泊の日はカレンダーにマーク、急な時は電話すること。冷蔵庫の品物は名前を書くこと、BFは部屋に入れないこと、女友達はよし。
かのような取り決めをしていた。
正確には1年半でこのマンションを3人は出たが私達は一度も喧嘩はしなかった。それは職業の違いから来ることが大きかったかもしれない。
漫画家のアシスタントのA子は仕事が多忙になると月に数回しか帰らない、時に私も駆り出され、背景の資料探し、弁当の買出し差し入れなど手伝った。
何気なく読んでいる漫画がこれほど大変な緻密な作業の積み重ねなのかと知った。
先生に無理難題、罵倒され悔し涙を声を出さず立ち尽くす姿は一生忘れないだろう。
カンヅメを終え、明け方帰ってきて、シャワーも浴びず、死んだように眠りこける姿を見て、心配になり何度も息をしているか確認していた。
B子は美容学校はいつの間にか辞め、夕方、いきなり派手な孔雀のような姿になって出かけるので聞くと新地のホステスにスカウトされたという。美人が一層美人になる姿は見ていて楽しいが、おかしな人に騙されないかと心配になったが、姉妹全員新地デビューらしく、これもまた違う世界で私とは生活リズムが全く反対の生活だった。
ジャズバーの帰りだったろうか、B子の働くお店がこの近くだとウロウロしていると、客を送り出す姿を見た。孔雀は羽をふんだんに広げ着物姿は凛として、一層美しい。客だけでない、先輩のお姉様方にも気を張っている姿。もはや自宅でくつろいでいる小娘ではなく、私は羨望の眼差しで眺めていた。
そんな中、月に1回は、3人一緒に食事をマンションですることを決めていた。
当時、私達が唯一作れた料理は、お好み焼きしかなく、その無駄に広い庭のようなベランダで、それぞれの友人も招いて。
人生始まったばかりの私達は、抱える深い悩みもなく、これからの夢を大阪の夜景を眺めながら、明け方までビールを飲みながら語っていたように思う。
夜、帰宅して彼女達はいない、それぞれの扉は開けないけれど、何か残り香のようなものはあって、私は無事の帰りを待つ妻のように、リビングで猫と戯れていた。
深夜、B子が帰宅するドアの音を聞いて安心し、朝、A子が帰ってくると、遅刻しそうになっても一緒にコーヒーを飲んだ。
持ち主の帰国が早まり、私の結婚、A子は仕事で東京へ、B子は本格的に夜の蝶になってマンションを得て、そのマンションを慌しく出た。
今にして思うと、この頃の短くも濃密な生活は、普通のOLしか経験がなかった私に、たくさんの驚きと知らない世界の一部を垣間見せてくれたように思う。
阪神大震災以降、一度A子から状況を心配し、訪ねてくれたが、B子はその後、30代に会ったきりである。
いつでも会えると思いながら月日は流れ、一番早くに結婚した私は離婚し、結婚をしないと断言したA子には孫までいる。
このマンションは事務所から梅田に向かって歩く時に今もあるのだが、つい、いつもベランダの最上階を見上げてしまう。
私には追いかける夢などなかった。死んだように眠ることや、所作を美しくするために日舞を習うことなどは当時の私には感心するばかりだった。まだ彼女達は20代、地方から来たばかり、きっと、泣きたい夜もあっただろう。
懐かしい友人に会いたいという相談者の方の気持ちはよくわかります。
それは年齢を重ねてみて思う、過去の自分も探しているかのようです。
今、私が会いたい人と聞かれたらB子と言うだろう。過去の思い出話だけでなく、あの頃にはわからなかった事や、伝えたいことがたくさんある。そして、若い頃には気づくことが出来なかった、そのたくさんの優しさにお礼を言いたい。