金木犀の家
2013年2月20日 カテゴリー:雑記
いつからか、私はその家の前の道を通る時は注意深く歩くようにしていた。
その家の人は、以前は家族達と住んでいたような気がする。
家の前の道を車がゆっくり通過しようとした時、玄関の戸を激しく開け放ち、老人が現れて車に向かって暴言を吐く。
ここは自分の道であると箒を持って、その軽自動車に向かってダッシュで走りこんで行くのである。
運転していた女性は普通に安全運転で走っていただけで、激高する意味がわからない。何かを発すると今にもフロントグラスを割りそうな勢いの剣幕のため、車から降りず、その沈静を待っているという感じだった。
降りて話をつけようじゃないかと言われても世の中には常識が通じない、普通に会話をするということが出来ない方もいる。
前回は宅急便の車が付近にあるだけで、この道を使うなと言っていたような気がする。もし、その相手が真剣に怒ったらこの場は一体どうなるだろう。或いは、一方的に罵声を受ける方にしてみたら実に不愉快な時間である。
誰が呼んだのか警官が来て、運転手に目配せしながら、その場を納めさせたが、多分1時間以上は、その家の中に入っていた警官は意味不明な理不尽な話を聞かされていたことだろう。
その家はかつて、大きな金木犀の木があって、学生時代その道を通ると気持ちが柔らかくなったことを思い出す。手入れをされた色とりどりの花が咲き乱れ、向かいには駄菓子屋があり、買い食いをする子供達が玄関に大きな水瓶に亀がいるのを見つけ騒いでいた。
しかし、いつの間にかその庭は枯れ果て、使わなくなった雑多なモノが積み置かれ、水瓶の中はゴミ入れとなっていた。老人は常に玄関の戸を開け放つようになり、家の前を通過する車や人への関心を非常に強く持つようになっていった。
どんな家でも、ある時を境に家族が離れ、そこに一人きりになってしまうことがある。必ずしも、全ての方がそうなって行くのではないだろうが、家の顔、住人の顔すら変わっていくこともある。
どれだけ穏やかに真面目に生きていても、つまらないことが日常には溢れているが、それを聞いてくれる人がいないことは、その置かれた水瓶を溢れさせるほどの鬱積が家の前をひっきりなしに通過する車へと向けられて行くのだろうか。
孤独死に向かう独居老人の住まいは全ての家電製品が古いものしかなく、時が止まってしまうのか、壊れてもそのままにされているということが多いという。
新しいことへの関心は薄れ、今起きていることだけに固執されていくので、何かこちらが提案しても受け入れることに非常に時間がかかってしまう。
調査会社では15年ほど前は電話帳からのご相談しかなく、独居老人の方からの、調査ではないお悩みを聞くことも多く、その多くが孤独から来るものだった。
家の片隅に置かれた一冊の電話帳にしか心を打ち明けることが出来ないのかと知ると、適当にあしらう事など出来なかった。
私はその老人の何も知らないし、医者でもないので、それが病から来るものなのか、気性なのか、心身から来るものなのかはわからない。
ただ、どれだけ諍いがあったとしても、人は誰かと寝食を共にすることが何かしらの心の歯止めになっている、そんな気がしてならないのである。
周りではキレる人としか思われているのかもしれないが、かつて金木犀の匂いを放つ、その家は皆、穏やかで人を受け入れる家だった。
当時、読んでいた「若草物語」の本に挿んだこの家の金木犀を思い出す。
勝手に摘み取り、ガラスの小瓶に入れたり、匂い袋の中に入れてみたりしていた。
金木犀は押し花にはむいておらず、ただシミになっただけだった。匂いの中に立ちつくしていると、家人の人がやってきて、ならばと裏庭からダリアの様なピンクの花弁をいくつも摘み取ってくれた。
その背後にはこの老人がいて、子供達に亀のお腹を見せながら、押し花はしっかり乾燥させないといけないよ、と笑顔でとても優しく私にそう言ってくれたことを私は忘れてはいませんよ。